03月21日付 朝日新聞の報道「お疲れ様、長さん ドリフターズの仲間がコメント」へのコメント:

 いかりや長介さん死去の悲報から一夜明けた21日、東京都目黒区の自宅前は、報道陣がごった返す中、弔問客が次々と訪れ、花輪が届けられた。門の前で近所の人たちが手を合わす姿も見られた。また、いかりやさんがリーダーを務めたドリフターズのメンバーからは、思い出や感謝のコメントが発表された。

 加藤茶さん(61) 43年間一緒にやってきたけど、家族の大黒柱がなくなったみたいで非常に残念です。最後にもう一度みんなで「全員集合」やりたかったね、長さん。

 高木ブーさん(71) ドリフターズは僕の人生そのものであり、いかりやは最後の恩人でした。僕の顔を見てはいつも愚痴ばかり、最後まで危なっかしい僕の生き方が心配だったようです。でももっともっと生きて……もっともっと小言を言ってほしかった。もう何も心配しないで……ありがとう、合掌。

 仲本工事さん(62) 一番健康管理に気をつけていたのに残念です。いかりやのおやじがいなくなって、後は息子同士でドリフターズを守っていきます。

 志村けんさん(54) わたくしの人生で2度の転機があり、そのひとつは修業時代の時を終わり、コンビ結成で卒業。そしてふたつめは、ドリフターズへの参加であり、仕事等での妥協を許さない厳しさを教えてくれた偉大な方でした。

 ザ・ドリフターズ一同 長さん、長い間お疲れ様でした。ゆっくりお休みください。

(03/21 23:22)
http://www.asahi.com/obituaries/update/0321/002.html
03月21日付 日刊スポーツの報道「いかりや長介さん死去、72歳がんに勝てず」へのコメント:

 お笑いグループ、ザ・ドリフターズのリーダーで、存在感のある俳優としても人気のあった、いかりや長介(いかりや・ちょうすけ、本名碇矢長一=いかりや・ちょういち)さんが20日午後3時半、原発不明がん頚部(けいぶ)リンパ節転移のため東京都港区の慈恵医大病院で死去した。72歳。東京都出身。葬儀・告別式の日取り、喪主は未定。

 東京生まれだが、戦時中に静岡県に疎開し少年時代を過ごした。その後、東京で親せきの洋品店を手伝ううち、音楽好きが高じて61年にジミー時田さんのバンドに加入。64年、現在のザ・ドリフターズを結成した。

 66年のビートルズ来日公演で前座を務め、コミックバンドとしてテレビのバラエティー番組で注目を集めた。69年から16年続いたTBS系の「8時だヨ!全員集合」は国民的な人気を集めたが、低俗番組という批判も受けた。お笑いのネタ探しや演出も手掛けながら、加藤茶、荒井注ら個性的なメンバーをリーダーとして仕切り、「オッス!」「いってみよー」「だめだこりゃ」などのギャグも流行させた。

 同番組終了後は、黒沢明監督の「夢」(90年)などで、俳優として活躍。渋い脇役が多かったが、刑事役などで存在感を発揮。97年のフジテレビ系ドラマ「踊る大捜査線」でひょうひょうとしたベテラン刑事を演じて高い評価を得た。03年5月末に、頚部(けいぶ)リンパ節がんと診断され都内で入院、放射線治療などを受け同年7月に退院、仕事に復帰していた。

[2004/3/21/00:23]
http://www.nikkansports.com/ns/entertainment/f-et-tp0-040320-0022.html
03月21日付 日経新聞の報道「ドリフターズのいかりや長介さんが死去」へのコメント:

 人気お笑いグループ、ザ・ドリフターズのリーダーで俳優のいかりや長介(いかりや・ちょうすけ、本名=碇矢長一=いかりや・ちょういち)さんが20日午後3時半、頸(けい)部リンパ節がんのため、東京都内の病院で死去した。72歳だった。告別式の日取りなどは未定。
 1964年に現在のザ・ドリフターズを結成。コミックバンドとしてテレビ番組を通じて人気を集め、66年のビートルズ来日公演の際には前座に。69年から始まったテレビ番組「8時だヨ!全員集合」で大道具の仕掛けを使ったテンポのよいコントを繰り広げ、国民的な人気を得た。「いい湯だな」など歌のほか、「オッス!」「だめだこりゃ」などの言葉も流行させた。 85年の同番組終了後は、黒沢明監督の作品「夢」(90年)に出演するなど映画やテレビドラマで活躍、「踊る大捜査線」での老刑事役など俳優としても高く評価され、99年には日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞。昨年5月に頸部リンパ節がんのため入院するなど体調を崩し、治療を続けていた。

http://www3.nikkei.co.jp/kensaku/kekka.cfm?id=2004032102810
03月21日付 日刊スポーツの報道「ドリフリーダー、いかりや長介さんが死去」へのコメント:

 お笑いグループ、ザ・ドリフターズのリーダーで、存在感のある俳優としても人気のあった、いかりや長介(いかりや・ちょうすけ、本名碇矢長一=いかりや・ちょういち)さんが20日午後3時半、原発不明がん頚部(けいぶ)リンパ節転移のため東京都港区の慈恵医大病院で死去した。72歳。東京都出身。葬儀・告別式の日取り、喪主は未定。

 東京生まれだが、戦時中に静岡県に疎開し少年時代を過ごした。その後、東京で親せきの洋品店を手伝ううち、音楽好きが高じて61年にジミー時田さんのバンドに加入。64年、現在のザ・ドリフターズを結成した。

 66年のビートルズ来日公演で前座を務め、コミックバンドとしてテレビのバラエティー番組で注目を集めた。69年から16年続いたTBS系の「8時だヨ!全員集合」は国民的な人気を集めたが、低俗番組という批判も受けた。お笑いのネタ探しや演出も手掛けながら、加藤茶、荒井注ら個性的なメンバーをリーダーとして仕切り、「オッス!」「いってみよー」「だめだこりゃ」などのギャグも流行させた。

 同番組終了後は、黒沢明監督の「夢」(90年)などで、俳優として活躍。渋い脇役が多かったが、刑事役などで存在感を発揮。97年のフジテレビ系ドラマ「踊る大捜査線」でひょうひょうとしたベテラン刑事を演じて高い評価を得た。03年5月末に、頚部(けいぶ)リンパ節がんと診断され都内で入院、放射線治療などを受け同年7月に退院、仕事に復帰していた。

[2004/3/21/00:23]
http://www.nikkansports.com/ns/entertainment/f-et-tp0-040320-0022.html
いかりや長介さん死去、国民的な笑いをありがとう

 ミュージシャンから人気コメディアン、最近では渋い個性派俳優へと活躍の場を広げてきたドリフターズのいかりや長介さん=本名・碇矢長一=が20日午後3時30分、東京・西新橋の慈恵会医科大学病院で亡くなった。72歳だった。昨年5月末に頸(けい)部リンパ節がんと診断され、手術は行わず放射線治療を受けた。同年7月に仕事復帰したが、今週はじめに体調を崩し再入院。帰らぬ人となった。葬儀・告別式は未定。

「オイーッス」「だめだ、こりゃ」「いってみよー」…。昭和のお茶の間を彩った名セリフの数々。長さんのあの元気な声はもう、聞けない。

 関係者によると、いかりやさんは、今週のはじめに体調を崩し、慈恵会医大病院に入院。夫人の義子さん(67)の必死の看病もむなしく、最後はまるで眠るように静かに息を引き取った。義子さんをはじめ、先妻(離婚)との間にもうけた長女(39)、長男(34)と孫ら親族数人が最期を看取った。

 いかりやさんは昨年春ごろ、首が腫れていることに気づき検査を受けた。その結果、「原発不明頸部リンパ節がん」と診断され、5月28日に緊急入院。がんは極めて早期の発見といわれ、手術を受けず、放射線による治療を選択。約7週間入院して治療を受け、7月17日に退院した。

 その2日後の19日には出演した映画「踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!」の舞台あいさつに登場。「医者からは『犯罪以外なら何をやってもいい』と言われてます」と得意のジョークで復帰をアピールした。その後は、同年10月スタートのフジテレビ系連続ドラマ「恐怖劇場・あなたの隣に誰かいる」にレギュラー出演するなど体調は万全に見えた。

 だが、今月はじめ、出演するテレビ番組の会見が突然、キャンセルされ、体調を案じる声も上がっていたが、やはり、がんは再びいかりやさんの体をむしばんでいた。関係者によると、退院後も定期的に検査を受け、入退院を繰り返していたという。今週はじめの15日検査で、病状がおもわしくなかったため、そのまま入院。帰らぬ人となった。

 遺体はこの日午後7時すぎに東京・目黒区の自宅に無言の帰宅をした。1階の居間に安置された遺体には、義子さんら家族がずっと寄り添った。

 リーダーの訃報を受け、自宅にはメンバーの志村けん(54)、加藤茶(61)が真っ先に駆けつけ無言の対面。物言わぬリーダーの姿にただただ絶句した。数十分遅れで駆け付けた高木ブー(71)は「バカヤローって言ってやりました」と涙をこらえて話した。遺体と対面した3人は、言葉にならぬほどのショックを受けていたが、「葬式は盛大にやってやろうな」と結束を固めているという。仲本工事(62)は仕事の都合で来られなかった。

 その盟友たちと昨年12月上旬に収録したフジテレビ系特番「ドリフの大爆笑」(同23日放送)が最後の仕事になった。

 いかりやさんはコミックバンド「ザ・ドリフターズ」のベーシストとして活躍。お笑いグループに転身してからは、リーダーとしてときに憎まれ役を演じながら、グループをけん引してきた。同グループが一時代を築いた後は、役者に本格的に進出。美男とはいえない個性的な顔立ちを武器に、哀愁漂う中年、老人を演じ、高い評価を受けていた。

★いかりや長介(いかりや・ちょうすけ) 本名・碇矢長一(いかりや・ちょういち)。昭和6年11月1日、東京都墨田区生まれ。37年ザ・ドリフターズの結成に加わり、39年からリーダーに。同41年に初来日したビートルズの前座で演奏を務めた実績を持つが、次第にコント色を強め、TBS系のお笑いバラエティー「8時だヨ!全員集合」は最高50・5%の視聴率を記録。60年の番組終了後に俳優としてスタートを切り、平成11年に映画「踊る大捜査線 THE MOVIE」で日本アカデミー賞助演男優賞を受賞。13年自身の半生をつづった著書「だめだこりゃ」を刊行。同年ドリフとしてNHK「紅白歌合戦」に初出場した。私生活では昭和36年に結婚し、1男1女をもうけるが、53年に離婚。翌年に前夫人と再婚したが、前夫人は平成元年に病気を苦に自殺。平成5年に義子さんと結婚した。

★ザ・ドリフターズ★

 昭和39年9月、いかりや長介を中心に、音楽を取り入れて、リズムに乗った新しい笑いを作り出そうと加藤茶、荒井注、仲本工事、高木ブーの5人が集合。ザ・ドリフターズが結成され、日本テレビ「ホイホイ・ミュージックスクール」で番組デビューを果たす。41年8月、日本テレビ「あなた出番です」にレギュラー出演。翌年3月には新宿コマ劇場で1時間のステージを受け持ち、ファンを魅了。44年10月には、後にお化け番組の異名を取るTBS「8時だヨ!全員集合」がスタート(〜60年)。平均視聴率30%以上を誇り、笑いはもちろん、奇抜なアイデア、大道具を使った仕掛けが毎週話題になった。また、番組から「ちょっとだけよ」などの“流行語”も誕生した。45年12月には、「ドリフのズンドコ節」で日本レコード大賞大衆賞、日本歌謡大賞放送音楽賞を受賞した。49年3月いっぱいで荒井注が引退し、4月から新たに志村けんが加入した。平成に入ってからは、各人のキャラクターも生かし、ソロでの活動が目立っていたが、「ドリフの大爆笑」などの特番はファンの支持を得て健在ぶりをアピールした。

★原発不明頚部リンパ節がん★

 がんが発生した部位(原発巣)がごく小さかったり、診断が難しい部位にあるなど、がんが発生した臓器がわからない場合を原発不明がんという。頚部(首のまわり)のリンパ節が腫大する症状の場合を指す。いろいろながんの可能性があるため、外科療法、放射線療法や薬剤による治療が行われる。

http://www.sanspo.com/geino/top/gt200403/gt2004032101.html
あのコントをもう一度、今は幻に…

 最高50・5%という驚異的な視聴率を記録したおばけ番組「8時だヨ!全員集合」。その緻密な笑いを産み出してきたのは、ドリフターズのリーダー、いかりやさんだった。終了から20年近くたった今も、「−全員集合」のDVDが18万セットも売れるなど、若い世代にも人気が波及。再ブーム到来に、いかりやさんの健康が回復次第、昔のコントをそのまま演じる企画も浮上していたが、幻に終わってしまった…。

 ドリフターズ結成40周年の記念すべき年に、いかりやさんが天国に旅立ったのは何かの因縁か。

 今年1月に発売されたDVD「ザ・ドリフターズ結成40周年記念盤 8時だヨ!全員集合」は3枚組、270分のボリュームで、税込1万290円という高額にもかかわらず、発売日だけで初回出荷の7万セットを売り切ったほど人気となった。ドリフの笑いが懐かしさだけでなく、今の若い世代にも新鮮に受け入れられた証拠だった。

 「−全員集合」の放送作家、奥山恍伸さんは「ドリフはメンバー全員が面白かったが、長さんが特徴をつかんで適材適所に使っていた」と振り返り、「TBSの大きなリハーサル室で、長さんと私とディレクターで打ち合せをすると、カトちゃん(加藤茶)はトランプ、(荒井)注さんは本を読み、(高木)ブーちゃんは寝ていてバラバラ。台本の打ち合せはすべて長さんだった」とその功績を力説する。

 「こちらがプランを示しても、長さんが引っ掛かると大変で、何時間でも長い足を折ってしゃがんで考えていた。とてもじゃないが、ふざけた番組の打ち合わせじゃなかった」といい、「いくつかの番組を掛け持ちしているのに、長さんに引っ掛かると1日つぶれちゃう。本当にシビアな人、真面目に考える人だった。これから、むきにならないで性格俳優としてやっていければうらやましいと思っていたのに…」とその人柄を偲んだ。

 メンバーの1人、加藤茶はDVDの発売記念で取材を受けた際、再ブームをきっかけに、もう1度「−全員集合」のコントを、そのまま演じる企画があることを密かに明かしていた。加藤は「ちょっと動きが悪くなるかもしれないけど、昔より味は出ると思う」と熱い思いを語っていた。

 いかりやさんの“充電期間”が終了次第、実現に向けて動き出す予定だっただけに、残されたメンバーの悔しさは察するに余りある…。

★才能を開花させた「踊る大捜査線」

 役者・いかりやさんの魅力を最大限に引き出し、その才能を開花させたのは「踊る大捜査線」シリーズだ。

 ドラマ、映画で現場をともにした共演の織田裕二(36)はいかりやについて、以前、サンケイスポーツのインタビューにこう答えていた。「撮影の時間がどんなに遅くなっても、一晩でもジッと待っている。こんなベテランなのに、この姿勢はありなの?と思いました」。

 また、自分が画面に映らない時でも、相手役としてその場に立っていてくれたという。その時も決して手を抜かなかった。「たとえ自分の部分がカットされていても文句を言わない。すごいなーと」(織田)。

 織田をはじめとする若い俳優たちに自然と尊敬の念を抱かせていた長さんだが、本人は、「自分は一芸も極めていない」という思いが強かった。

 バンドからスタートしてコメディアン、そのうち役者へ。リーダーとしてグループをまとめ、コントに精を出していた時代は何をやっても「いかりや長介」。「芝居は自分以外のもう1人の自分になれる」と役者として、さまざまな色に染まれることを喜んでいた。

 ゴリラのように飛び出た下唇は、コメディアン時代は笑いの種になったが、晩年は個性的な顔立ちに。穏やかな話ぶりは温かな人間味を表現した。「踊る−」の亀山千広プロデューサーは、いかりやさんを「日本のモーガン・フリーマン(黒人の人気個性派俳優)」と評していた。

 役者として、“第2の黄金期”を迎えていたいかりやさん。さまざまな苦労をのみ込んだいぶし銀の演技はまだまだ必要とされ、期待もされていただけに、その死は残念だ。
http://www.sanspo.com/geino/top/gt200403/gt200403210102.html
03月20日付 朝日新聞の報道「いかりや長介さん死去 「ドリフターズ」のリーダー」へのコメント:

 人気番組「8時だヨ! 全員集合」でテレビのお笑いを席巻した「ザ・ドリフターズ」のリーダー、コメディアンで俳優のいかりや長介(いかりや・ちょうすけ、本名碇矢長一=いかりや・ちょういち)さんが20日午後3時30分、死去した。72歳だった。通夜は23日午後6時、葬儀は24日午後1時から東京都港区南青山2の33の20の青山葬儀所で。喪主は長男碇矢浩一(いかりや・こういち)さん。連絡先は、所属事務所で東京都港区赤坂9の6の28のアルベルゴ乃木坂203「イザワオフィス」。

 東京・本所生まれ。高校を中退後、職を転々とした。アマチュアのハワイアンバンドのベース奏者になったことがきっかけで芸能界へ。

 62年、加藤茶、小野ヤスシらと共にウエスタンとロックをこなすバンド「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」に加わった。その後、一部のメンバーが独自の活動を始めたため、64年に仲本工事、高木ブー、荒井注を加えて「ザ・ドリフターズ」を再結成した。日本テレビの「ホイホイ・ミュージック・スクール」でデビューし、楽器を使ったギャグでパンチのある笑いを送り出した。

 67年春、TBSの「ザ・ドリフターズ・ドン」に出演。69年、生中継番組「8時だヨ! 全員集合」がスタートした。大がかりな舞台装置と体当たりのギャグが子どもたちの圧倒的な支持を受け、「お化け番組」の異名を残した。同時に、「食べ物を粗末にする」といった批判や、ストリップまがいの踊りなどで「俗悪番組」とも呼ばれた。

 85年に「8時だヨ! 全員集合」が終了した後は、映画やテレビドラマで渋い脇役として精力的に新境地をひらいて行った。黒澤明監督の「夢」(90年)、山田洋次監督の「息子」(91年)などに出演、98年の大ヒット映画「踊る大捜査線」(03年に続編)では、日本アカデミー賞の最優秀助演男優賞に選ばれた。

 03年5月、原発不明頸部(けいぶ)リンパ節がんと診断され、治療を受けた。まもなく芸能活動を再開、ドラマなどに出演していた。

http://www.asahi.com/obituaries/update/0320/003.html

1 2 3 4